牛にひかれるやまと国びと
体調がここのところずっとわるくて、真剣に厄ばらいが必要なんじゃないのかとおもい、そんなのもかねて7年に1度の善光寺の御開帳に先日30日土曜日ちょっくらいってきました。「牛にひかれて善光寺参り」の昔話ならぬ、「厄にひかれて善光寺参り」です。
長野駅をおりるとS女の高校生があるいていました。ぼくたちの10代のころのあこがれの女子高です。そのころは善光寺のある長野市内なんてただの遊び場で、善光寺のぜの字もなく、それこそS女のレディーたちとおちかづきになるためにかよっていた街でしたが、いまではS女のレディーたちにおちかづきどころか厄とおちかづきになってしまい、ちかづきすぎちゃってこまっちゃって長野市がよいの善光寺参りです。…どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。はあ、あのころにかえりたいです。
善光寺は御開帳も最後とあって参拝客の数がものすごかったです。年越し初詣の善光寺も夜中でも身うごきできないぐらい混みあっていますが、それよりも多かったんじゃないでしょうか。本堂前には秘仏前立本尊さまと善の綱でむすばれているためふれるだけで本尊さまと結縁できるという回向柱がたっているのですが、門前からそこまでずっと参拝客がならんでいて結局2時間まちで回向柱にふれることができました。つかれました。でもふれたときは霊験あらたかといいますか、手がほんのりあたたかくなり仏さまの徳が脈々とつたわる感じがしました。
そのあとは本堂にはいり、御開帳の前立本尊さまのお姿を拝し手をあわせました。本堂にはいった瞬間から鳥肌がすごかったのですが、前立本尊さまのお姿を拝したときは体全体がゾクゾクして足はガクガクするし手はブルブルふるえるし、それはすごいオーラでした。これで厄もはらえたことでしょう。
ひとにはいろんなこころがあるし、あっていい。
清きこころも悪しきこころもひとのこころ。
ほとけごころもからごころもやまとごころ。
ぼくはそうおもいます。
清きこころに悪しきこころをもち、ほとけごころにからごろをもつ、やまと国びとのありのままのこころが「やまとごころ」でないのならば、「やまとごころ」っていったいなんなのでしょうか。もし「日本国学」というものがありえるとするならば、この日善光寺に参拝した何千何万のやまと国びとの真摯なほとけごころを「やまとごころ」とすくいあげたところにのみ成立するはずであり、もし「日本国史」というものがありえるならば、やまと国びとの清きこころに悪しきこころ、ほとけごころにからごころがおりなしたやまと国ぶりのそのありのままをふまえたところにのみ成立するはずです。「あれではない」「これとはちがう」となにごとかを否定しなければありえない日本なんて、なんていうか、へなちょこです。そしてすごく無責任です。じゃあ否定されたひとやものやできごとは、いったいなんなのだとぼくはいいたい。
清きこころも悪しきこころも本当のひとのこころであり、ほとけごころもからごころも本当のやまとごころである。S女のレディーとさわやかで健全な交際をしたいとねがったむかしのぼくも、善光寺に参詣し厄払いをねがったいまのぼくも、どっちも本当のぼくであるようにです。「あのころにかえりたいなあ」なんておもったら、いまのぼく自身にたいしてすごく無責任で失礼ですよね。過去をつみかさねたぼくのいまを、また明日からがんばっていこうと決意した次第です。
でもやっぱりほんとはかえりたいけどね。
長野駅をおりるとS女の高校生があるいていました。ぼくたちの10代のころのあこがれの女子高です。そのころは善光寺のある長野市内なんてただの遊び場で、善光寺のぜの字もなく、それこそS女のレディーたちとおちかづきになるためにかよっていた街でしたが、いまではS女のレディーたちにおちかづきどころか厄とおちかづきになってしまい、ちかづきすぎちゃってこまっちゃって長野市がよいの善光寺参りです。…どうしてこんなふうになっちゃったんだろう。はあ、あのころにかえりたいです。
善光寺は御開帳も最後とあって参拝客の数がものすごかったです。年越し初詣の善光寺も夜中でも身うごきできないぐらい混みあっていますが、それよりも多かったんじゃないでしょうか。本堂前には秘仏前立本尊さまと善の綱でむすばれているためふれるだけで本尊さまと結縁できるという回向柱がたっているのですが、門前からそこまでずっと参拝客がならんでいて結局2時間まちで回向柱にふれることができました。つかれました。でもふれたときは霊験あらたかといいますか、手がほんのりあたたかくなり仏さまの徳が脈々とつたわる感じがしました。
そのあとは本堂にはいり、御開帳の前立本尊さまのお姿を拝し手をあわせました。本堂にはいった瞬間から鳥肌がすごかったのですが、前立本尊さまのお姿を拝したときは体全体がゾクゾクして足はガクガクするし手はブルブルふるえるし、それはすごいオーラでした。これで厄もはらえたことでしょう。
ひとにはいろんなこころがあるし、あっていい。
清きこころも悪しきこころもひとのこころ。
ほとけごころもからごころもやまとごころ。
ぼくはそうおもいます。
清きこころに悪しきこころをもち、ほとけごころにからごろをもつ、やまと国びとのありのままのこころが「やまとごころ」でないのならば、「やまとごころ」っていったいなんなのでしょうか。もし「日本国学」というものがありえるとするならば、この日善光寺に参拝した何千何万のやまと国びとの真摯なほとけごころを「やまとごころ」とすくいあげたところにのみ成立するはずであり、もし「日本国史」というものがありえるならば、やまと国びとの清きこころに悪しきこころ、ほとけごころにからごころがおりなしたやまと国ぶりのそのありのままをふまえたところにのみ成立するはずです。「あれではない」「これとはちがう」となにごとかを否定しなければありえない日本なんて、なんていうか、へなちょこです。そしてすごく無責任です。じゃあ否定されたひとやものやできごとは、いったいなんなのだとぼくはいいたい。
清きこころも悪しきこころも本当のひとのこころであり、ほとけごころもからごころも本当のやまとごころである。S女のレディーとさわやかで健全な交際をしたいとねがったむかしのぼくも、善光寺に参詣し厄払いをねがったいまのぼくも、どっちも本当のぼくであるようにです。「あのころにかえりたいなあ」なんておもったら、いまのぼく自身にたいしてすごく無責任で失礼ですよね。過去をつみかさねたぼくのいまを、また明日からがんばっていこうと決意した次第です。
でもやっぱりほんとはかえりたいけどね。